野田事件
1979(昭和54)年9月11日
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1979(昭和54)年9月11日、千葉・野田市で、下校途中の小学1年の女児が殺害された。性的ないたずらをした形跡がはっきりとあった。29日、現場近くに住む青山正(31)を逮捕。青山は知的障害を持ち、当初は訴訟能力に疑問が持たれたが、そのまま審理は進行、1987年1月に千葉地裁で懲役12年が言い渡され、93年に最高裁で確定した。


1979(昭和54)年9月11日、千葉・野田市の市立福田第一小学校1年・E子ちゃん(7)が、14:00ごろに学校を出たあと行方不明になった。

下校のコースは田畑に民家が散在する地区で、小学校からE子ちゃんの自宅は、子どもの足で小一時間かかるくらい離れていた。と言っても、途中までは車の往来の多いバス通りがある。
E子ちゃんのいつものコースでは、その道路を右に出て、左側にある人気のない竹林の向こうに向かって自宅に着く。その途中にあるガス店の主婦が、下校するE子ちゃんを最後に目撃していた。これが14:30のことである。

E子ちゃんの自宅では、お婆さんが留守番をしていた。E子ちゃんの兄は早く帰ってきているのに、普段寄り道などはしないE子ちゃんが帰ってこないため、近くを探しはじめた。 それでもどこにもいない。お婆さんが仕事中のE子ちゃんの母親に電話を入れたのが16:00ごろである。
両親は17:00前には帰宅。家族で探してみたが見つからず、日も暮れてきたので警察に通報、消防団に捜索を依頼した。夜には知らせを聞いた近所の人なども懐中電灯を持って探し歩いた。


21:00前、自宅から50メートル離れた竹ヤブの古井戸の中で、捜索に加わっていた近くの主婦(35)が、土から女児の足が見えているのに気づき、通報した。
警察が調べてみると、古井戸の底から女児の遺体が見つかった。遺体は寝たような姿勢で、頭〜胸のあたりに大きな石が置かれ、肥料袋がかぶされており、その上からササや土がかけられていた。

死因は窒息死。喉の奥に本人の持ち物だったガーゼのハンカチが押し込まれ、さらに被害者の下着も入れられていた。解剖の結果、性的ないたずらの痕跡がはっきりとあり、子宮口と膣内に単三乾電池2本が入れられ、膣と肛門が裂けて多量の出血という、なんとも痛ましく、陰惨な状態だった。

13日にはE子ちゃんの持ち物である赤いレッスンバッグと衣類が、古井戸から18メートル離れた草むらから発見された。発見当時、草に隠れるのではなく、草の上に乗っかるかたちで置かれており、この距離にあって事件当日やその翌日になぜ発見できなかったというのは謎である。犯人が騒ぎの後で、置きにきたとも考えられる。

捜査本部は近くの変質者をリストアップ、E子ちゃんの通っていた小学校周辺には当時変質者が出没しており、年に5、6回ほど通報騒ぎがあった。当然、地域の人も、そうした人間について噂することも度々だった。


9月29日、現場のすぐ近くに住む内職工・青山正(31)が逮捕された。
現場の竹ヤブは青山宅の裏庭にあたり、青山はよくそこで子どもたちと遊んでいたという。
青山は知的障害を持っており、在宅生活を続けていた。近所に付き合いのある人はおらず、事件発生直後、すぐに「青山が怪しい」「青山ならやりかねない」といった話が事件翌朝には持ち上がり、「青山を帰すな」という署名運動にまで発展した。

警察の方でも事件翌日から17日間、家にあがり、青山の様子を観察していた。のちに出廷した警察官は「内偵であった」と認めている。青山はそうした警察官の来訪に対しても、「お客さんだ」と喜び、菓子などを出したり、一緒にテレビを観たりしていた。

逮捕の決め手となったのは、E子ちゃんの衣服についていた微量の植物油と金属粉だった。金属粉は青山が普段の口紅キャップ加工の内職に使っていたものと同質で、植物油も青山方のサラダ油と同じとされた。また事件当日14:00〜16:00のアリバイが不明であること、竹ヤブの周りは見通しのいい畑だが、農作業をしていた人が逃げていく犯人を目撃しておらず、現場のすぐ近くに住む者であると疑われたからだった。青山は調べに対して「おら、知らないよ」と否認し続けた。

青山の家は元々裕福な旧家だったが、父親が亡くなってからはは経済的に困窮するようになり、田畑を手放すことも多くなった。遺体が発見された竹林ももともと青山の家のものだった。
当時は母親、離婚して家に戻っていた姉、その子どもとの4人暮らしだった。E子ちゃんの遺体を発見した主婦とは、この姉のことである。姉は仕事から帰った後、有線放送でE子ちゃんが行方不明であることを知り、竹林内を捜索。一回りしてから古井戸を思い出し、発見した。

青山は子供の頃、頭に腫瘍ができ、知能に遅れが出た。小学校卒業後、中学校は入学式とその翌日に登校しただけで、それ以後内職をして生活していた。重い障害があったAだが、仕事も問題なくでき、機械を操作したり、自宅で獲れたタケノコを知人に配るなどしていたという。そしてそれまでに性的なトラブルを起したことは、一度もなかった。

ラジオをよく聴いていた青山は、電波の入りが悪くなると、「電池が切れた」と思い込んで、そのたびに交換していた。そのおかげで乾電池を多く持っていて、母親も月に一箱を買い与えていた。電池は一箱40本入りで、しかも交換した電池もあたりに放りっぱなしにしていたので、家宅捜索の時には500数本もの乾電池が出てきた。
電池は女児殺害の犯人も使用したが、青山は交換した電池を裏の竹林にも捨てていて、犯人はたまたま落ちていた乾電池を使用した、という見方もできる。



10月2日、それまで否認していた青山が自白。だが殺害の際のストーリーを話すことはできなかった。
青山は家族などに立ち会ってもらわなければ言いたいことを正しく人に伝えられなかったが、取り調べはなぜか立会人をおこうとはしなかった。一般の容疑者と同じように行なわれ、知的障害を配慮した様子はなかったという。

精神鑑定(中田修鑑定)で青山は「知的年齢は4歳から6歳程度の重傷痴愚」と診断された。法廷に立った中田氏は訴訟能力について「ないとは言えない」とし、結論保留のまま12月15日に起訴、実質審理に入っていった。

1980(昭和55)年1月28日、千葉地裁で第一回公判。

裁判では、青山に幼児性愛があったかどうかが問題となった。そのことを示す物的証拠が提出されている。それは青山が逮捕された時に押収された小さなノートなのだが、これに新聞の切り抜きが挟まっていた。シャワーの広告で、小さな男の子と女の子が裸で、シャワーを浴びて遊んでいる写真が載っていた。
4月頃に切り抜いたと青山が供述したこの切抜きについて、逮捕2日目の検面調書でも次のようにある。
「僕は小いちゃな女の子の裸がのった新聞を、ハサミで切って持っていました。…それを時々ベッドで見ていて、おチンチンが大きくなってしまいました」


「本当は僕、殺したんじゃねえもの」
1982(昭和57)年7月5日、第14回公判。初めて犯行を否認。

これに対して検察側は、取調べに誘導などがなかったことを証明するために、いくつかの資料を提出した。そのなかには10月9日の実況見分の時のVTRがあった。実況見分が映像として残っているケースは稀で、警察は当初から訴訟能力に疑問を持っていた可能性が高いと見られる。
実況見分では、青山が少女を待ち伏せした場所を案内し、どのように少女の襲い掛かったかを説明した。だが少女を裸にした場所など、調べの時とは食い違う場面もあった。

1987(昭和62)年1月26日、千葉地裁、懲役12年を言い渡す。青山は1審の最終段階には姉の説得により、自白を撤回していた。このため控訴した。なお母親は1審の途中で他界している。


後の弁護団の調査で、逮捕の決め手となったアニメ「キャンディ・キャンディ」の赤い手提げバッグが、警察によって捏造されていたとする疑惑が持ちあがった。

千葉県警は事件の2日後に衣類と一緒に放置されていた赤いバッグを公開した。カバンの裏側には、被害者の名前が書かれてあったのだが、なぜかその部分だけが切り取られていた。犯人がその部分を証拠隠滅のために切り取ったものとして、この布切れを最大の物証として捜査を進め、青山を追求した。逮捕から10日目に青山の定期入れの中からそれが発見され、切り口もぴったり一致した。

青山は逮捕2日目に布切れを切り取ったことを認め、それを「川に捨てた」と供述した。だがその翌日の長所では「ズボンのポケット」に入れた。青山は服を着替えるのが嫌だという性質があって、事件当日から逮捕された時までずっと同じズボンを履いていた。だが逮捕時にそうしたものが出てきたということはなかった。
10月9日、今度は「ズボンのポケットに入れていた定期入れのなかに布切れを入れた」と、絵に描いて説明しはじめた。実際、青山は落ちていた定期入れを拾い、普段持ち歩いていたトランジスタラジオに鎖と紐でつないで一緒にポケットに入れていた。

取調べの録音テープによると、青山はその供述した後、「(定期入れを)持ってくればわかるんだよ」と言った。そこで取り調べ官の1人がその場を離れ、問い合わせた。しかし押収物保管係は「定期入れの中に何もなかった」と答えた。 
だが調書では「定期入れに入れたと供述したので、取り寄せて本人に開けさせたところ布片が出てきた」と書かれていた。明らかな矛盾である。

この問題で、押収物保管係と、借りた刑事がそれぞれ出廷した。
弁護側の証人尋問に立った押収物保管係の証言によれば、問題の定期入れを貸し出したのは、当日10:00ごろと15:00過ぎの2回。1回目の時は昼休みに一旦返却された。だが借りた取調官は「午前中には定期入れを借りていない」と証言。食い違う内容に、裁判官は取調官の証言を却下した。

取調べの録音テープには、何気ないが重要な一言が入っていた。取調官の「じゃあ飯にすっか。もうちょうど12時だからな」という言葉だが、これにより午前中に定期入れを借りてきたことは明らかとなった。午前中に借りた時、「何も入っていない」と言っていたのに、午後の貸し出しの時には見つかっている。”空白の5時間”が存在していた。
 
問題の疑惑とは、午前中に「定期入れに入れた」という供述に沿って、この間に、被害者の持っていたものとは別のカバンを用意して、裏に名前を書いて切り取る。そしてその代わりの赤い布を定期入れに入れた、というものである。

カバンは株式会社タカイシ(東京・荒川区)のレッスンバッグで、少なくとも50万個を売り上げるなど、当時の大ヒット商品だった。
だが事件当初に公開したバッグの写真と、警察が裁判所に提出したカバンの写真は、一見同じものに見えるが、著作権表示が書かれた部分が違う、ホックの位置が違うということがわかった。前者の写真はタカイシのものでなく、それに似せて作った海賊版であった可能性が高いというのである。
そして空白の5時間で、警察は被害者の持っていたカバンが海賊版であることに気づかず、本物(タカイシ社製)を買ってきた…とするのがこの疑惑である。


金属粉、植物油、乾電池など、青山と事件を結びつけるものはいくつもあるが、その一方でただ現場のすぐ傍に住んでいたから自ずと結びついたとすることもできる。現場からは指紋や足跡が多く採取されたが、そのなかに青山のものはなかった。
 
また青山の幼児性愛を示すとされた新聞の切り抜きでも、最高裁段階で弁護団が調べたところ、裏面から9月10日の新聞に掲載された広告だとわかった。4月に切り取ったとする供述は、嘘だったのである。

だが1993(平成5)年12月20日、最高裁は上告棄却。

1994(平成6)年8月14日、青山、満期で出所。
その後、青山は大阪の障害者施設に移った。身の回りの世話をする人も青山の無実を信じてるいるという。

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